仰木マジックよ、永遠に。

仰木彬監督が15日に急死しました。
今年69歳という史上最高齢で統合球団の初年度の監督を引き受け、その心労は計り知れないものだったでしょう。
僕がこのことを知ったのは16日の朝でした。家ではサンケイ系列のスポーツ新聞を取っているので、その一面で。15日は早く寝てしまったのでニュース等で知ることはありませんでした。
僕はオリックス・ブルーウェーブファンです。好きになったのはがんばろうKOBEのあたり。監督はもちろん仰木さんでした。
当時から一時退団するまでの主力を育て上げたのは彼に他ならない。イチロー、パンチに始まり、田口壮長谷川滋利オリックスだけでも多くのメジャーリーガーとなる選手を起用しました。
ここで思い出せるだけ第一次仰木政権のオリックス選手を上げてみようと思う。(ここは随時追記します。)
投手では、スローカーブの星野伸、小林宏、鈴木平、野田、小倉恒、当時抑えの切り札のレフティー野村、史上最高齢ノーヒッターの佐藤、二刀流嘉勢…他にもたくさんの名投手がいました。
捕手では、日高、三輪、中嶋聡ですか。そこまで突出した捕手がいないのにパリーグ2連覇を果たしたのは仰木マジックがあってこそ。
内野手は、満塁男藤井康雄オリックス時代の最優秀助っ人トロイ・ニール、福良、小川、馬場といった渋い面々や、登録名シリーズのC・D(クリス・ドネルス)さらには大島公一もいましたね。
外野手は、イチロー、田口、本西の鉄壁の外野陣に、ロッテファンとジョニーを地獄に落としたプリアム、D・Jといった助っ人勢、デカこと高橋智、谷もこのとき。ヤクルトからきた広永もそう。
こんなに魅力あるチームを作ってくれたのは彼の功績ですよね。
僕は詳しくは知りませんが、近鉄監督時代にも名監督だったそうで。西鉄選手時代のこともエピソードを聞いたことがあります。誰かの引退試合でその選手の打球が飛んできて、セカンドで打球を取りに行かなかったとか。
いつだったかよく覚えていませんでしたが、西鉄時代の同僚の豊田泰光氏が週刊ベースボールで仰木になんかあったらオリックスは許さないといっていましたが、まさにそのとおりになってしまいました。少なからず仰木さんの死の原因はオリックス・バファローズにもあるのではないかと思う。結果論になってしまいますが、確かにオリックス近鉄両球団で采配を揮い、そのバラバラのチームをまとめるには彼の力が必要だったかもしれない。しかしもう一人フォローできる人をヘッドコーチとしておくなど、その辺の配慮があったらこのような事態は起きなかったかもしれない。
彼は死ぬには早すぎるし、もう一度監督となる代償として死という犠牲を払わされたのならその犠牲はあまりにも大きすぎかったのではないだろうか。
巨星堕つ。尊敬していた人が死んでしまったことは僕にはとてつもなく大きな衝撃となった。